二宮尊徳(金次郎)は、 たいていの小学校に薪を担ぎながら本を読んでいる銅像があり、 「刻苦勉励」の鑑として尊敬を受けている。
尊徳は、天明7年に生まれたが、 5歳の時に近くに流れる酒匂川の氾濫によって、 先祖伝来の田畑の大半が流失し、貧苦のどん底に落とされた。
その後16歳のとき、母が死去し、そのために一家離散となってしまった。
20歳の時、生家に戻り創意工夫と持ち前の努力によって、 約10年の歳月を掛けて、再建、31歳の時には、近在屈指の自作農となった。
その後、服部家の財政建て直しの依頼を受け、その実績から、 数々の財政再建や村おこしを依頼され実績を残した。
コンサルタントの先駆者である。
二宮尊徳は、村興し手法を「仕法」とよび、その中の根本思想である、「心田開発」「報徳」「積小為大」「分度」などの考えを確立した。
この思想は、現代の企業経営にも当てはまる。昔の村興しも現代の企業経営も「人間」が主体である。よって根本原理は同じ。
村興しにしか適用できないという「思想」「考え」は有効とは言えない。根本は人づくり。人が育つ。
そこにノウハウ(道具)を使える人材を育成する。やる気(情熱)とノウハウはここで車の両輪となる、という順で尊徳は人を育て、村を変えていったのである。
心田開発 | 事業等をなし遂げるのには、人々のやる気を起こさせるのが始まりであり、
一人ひとりが自立できる人財を育成することである。 尊徳は仕法を依頼されても、そこの領民たちが、やる気を出すまではノウハウ等は伝えなかったという。 計画がすばらしかろうと、資金や道具がそろっていようと、中心となる人間がやる気を出していなければ成果は期待できないからである。 |
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報 徳 | 「万物の徳に己の徳をもって報いよ」ということであり、具体的には、人や物の長所を見いだして、その力を十分に発揮させること、
生かし切ることである。 人間には、限りない発展可能性が秘められており、それはダイヤモンドの原石のようである。 「人物と出会う」「読書により著者と対話する」「さまざまな事柄を経験する」「主体的に生きる」ことで磨かれる。 まず自己を高める。それがすべての出発点である。そして、相手の「徳」を見抜いて活かすことである。 人も企業も徳を磨くことで大きく飛躍するのである。 |
積小為大 | 理屈を考えるより小さいことでも良いから、できることから実施しよう。 いわゆる「頭の良い人」に限って、事を成すに当たり、出来ない理由を考える。 そんな否定的な考えや愚痴を言っている暇があったら、出来るところから、少しずつ実行することが、成果を出す近道であり、唯一の道でもある。 |
分 度 | 所得に応じて支出を抑えることであり、企業で言えば業績管理。 人間は欲があるから収入を増大させようとするが、支出に関しては、その欲を押さえることが大切。 いわゆる放漫経営による倒産とは、支出の際の欲を押さえられない社長の心の歪みがもたらした悲劇である。 |
推 譲 | 分度を超え、余った部分を将来のために残したり、他人のために提供すること。 これは、自分の成果を自分のものとせず他に施す考えであり、「奪え合えば足りなく、分け合えば余る」と言う。 「奪え合っている世界」それは、修羅の世界であり、「分け与える世界」それは、神仏の世界である。 他に施すという「報恩」の心なくして人生は潤わない。 |
二宮尊徳は「二宮翁夜話」で、本当の商売のやり方を伝えている。
これは正に、尊徳の人生観に裏打ちされた、真の商売観である。
「世の中で、法則といえるもんは、天地の道、親子の道、夫婦の道、農業の道の四つだな。これらの道は、双方が互いにうまく行く完全なものなんだ。万事この四つを基準としてやれば間違いないのさ。
・・・・(中略)・・・・
つまり、天は日光、空気、雨などの生きるに役立つものを下し、地はそれを受けて動植物を発生させ、親は損得を忘れ、ひとすじに子を育て、その成長を楽しむ。
子は育てられて両親を慕う。夫婦の道も互いに助け合い、楽しみ合って子孫が相続していく。
農夫はよく働いて作物の生育を楽しみ、作物もまた、喜んでよく育つ。皆どれも双方苦情がなく、喜びの情ばかりだ。
さて、この道にしたがえば、商売では、売って喜び買って喜ぶようにせにゃあかん。売って喜び買って喜ばないのは道ではないんだぞ。」(「二宮翁夜話」P138~P139)
尊徳は「道徳を忘れた経済は罪悪である。しかし、経済を忘れた道徳は寝言である。」と主張している。
人間としての生き方を忘れ、利益のみを追求している我利我利亡者は世間に害悪をばらまいている存在であり、生きる資格はない。
逆に人として生きる道ばかりを追求し、実践をおろそかにすることは、本人は幸福かもしれないが、会社が倒産してしまうことなどで、かえって多くの人を不幸に導く可能性すらあるのである。